コンプレックスをバネに人は成長するものと一話で語ったけれど、こんなことを思い出したわ。
小学校の同窓会の時に、いじめっ子だった男の子(その時は立派なオジサン)に「大人しくてどんくさいN君をよくいじめてたよな。」って話しかけたの。
神社の境内で松ぼっくりを集団でN君に投げ付けたことがあって、その首謀者だったのよね。まぁ、当時のいじめなんてカワイイもんだったから、笑いネタとして振ってみたの。
すると、そいつはそのことをすっかり忘れていたのよ。
でも、N君は欠席していたんだけど、きっと覚えていると思うの。
(因みにアタシは木陰から見ていただけの情けないヤツだったわ。)
ここが問題よ。
当時アタシにオカマって言っていた連中もそれを覚えていないと思うの。
アタシが女の子みたいな子だったという記憶はあってもね。
子供って見て感じたとおり言葉にするから残酷よねぇ。
電車の中で長身で薄毛のサラリーマンを見て“♪大きなノッポのはげ頭ぁ~”ってな替え歌を唄っている小学生を観たことがあるわ。だけど、そこには悪意は無いのよね。
だから、アタシがオカマって言われていたこともそう。アタシの見た目や行動が原因だったのよ。
・・・そんなふうに思えるようになって、長い年月をかけてトラウマが解消されていったわけなの。
そして、「どうせオカマですからぁ~。」なんて笑って言えるようにもなったわ。
アタシは高校を出て岩手から上京したころ暫く無口だった。訛りを馬鹿にされると思ってね。
今じゃ岩手という故郷があってよかったと思っているわ。甲子園での花巻東高校の活躍を観て、大都市圏と地方との格差がだいぶ狭まったと思ったしね。
「地方出身者」とご丁寧に言われる前に、堂々と「アタシ田舎者だから。」って言っちゃう。
結局は、第九話の“台湾同志”でお話したように、言葉の持つ愛情というか、言葉を発する時に込められる愛情の違いが問題なのよね。
言ったほうに悪意は無くっても、言われたほうにとってコンプレックスど真ん中だったとしたら深い傷を負わせることもある。
例えば、家庭が貧しかったり、病弱だったことをバネに、プロボクサーになった物語に感動するのは、己のコンプレックスに打ち勝つことの難しさを誰もが知っているからなんじゃないかしら?
つづく